深夜アニメが少なくなっても構わないよね

クレームな話を先頭に置いておくのもアレなので、ちょっとアニメな話で流しておく。ふと、ツイッターで「アニメ現場の労働条件を守るために、深夜アニメが少なくなっても構わないよね」というようなツイートを見かけたのだが、そんなに多いのか…と思ったそんなに多いんだな。もともと、アニメを見る人口が10倍以上に増えたわけでもなく(深夜アニメは20年前からすれば10倍に以上に増えている…というか、20年前は深夜アニメって枠は無かったしなぁ)、そうなると、多少増えたとはいえ、単純に10分の1の労力でできるか、10分の1の賃金でしかうまく回らない訳で、深夜アニメ自体が「投資」の対象とされているかどうかはさておき、業界として収支が廻らないのはそうだと思うところだ。が、宮崎駿の現場とか虫プロのアニメの状況を考えたりすると、いやいや深夜アニメが増えるとか増えないとかいう以前に、そういう現場が続いてるという状況もある。で、深夜アニメという枠…というか、テレビ放送が24時間やるようになって、深夜の映画枠がなくなってしまって(古い映画を流しているだけだし、放送終了時間もあったから、それほど予算も掛からなかったはずだ)、バブル時代の24時間放送を経て、不況の時代から地デジになっても24時間放送にこだわるところで、予算が少なくてもアニメ枠で埋め合わせができる(あるいは、吉本芸人枠とか?)と考えたテレビ業界なのかもしれないし、受注するアニメ制作会社が放送枠だけではなくて DVD やキャラクターグッズなどの販売をあたることができる(実際、収支が合っているかどうかは別として)と考えたところに、落とし穴があるのではないかと思っている。単純に数を減らせばいいだけじゃないかと思うのだが、どうなんだろう。数を減らしてしまうと、クビになってしまうアニメーターの人が多いのかもしれない。

中学から高校に上がるときに「うる星やつら」を観て育って、「めぞん一刻」の頃は大学生じゃなかったのであまり興味が移らずに、大学生になった頃には「らんま1/2」は観なかったわけなのだが、当時、アニメが午後7時から8時までのゴールデンタイムに放映されたいた時代は、週に4つぐらい観れば十分だった。週刊の漫画雑誌でもそうなのだが、連載ものを追うときには自分の中の時間と漫画/アニメの中の時間が同時並行になる。いまでこそ、ほとんど季節感の無い連載とか、ワンクールで終わってしまうようなアニメが頻発するわけだけど(逆に、いつまでもやっているアニメもある)、半年の連載や放映の間には、半年という時間が自分の中にもあって、なにかが「成長」してしまう。そう、この歳になってしまうと「半年」ぐらいどうということはないのだけど、中高生にとっては「半年」というのは非常に長く、貴重な時間の枠でもある同時代性を持っている。だから、ある程度の長さがあるアニメ枠(深夜枠を観るとは限らないし、観ているのは大学生以上なのかもしれない)を眺めていて思うのは、やっぱりもう少し少なくても良いのかもしれないという結論だ。

勿論、中高校生だけのものではないから(30年前はそうだったけど)、それはそれでいいんだけど、そこのある「半年」というリアルな時間の捉え方の差は考えてほしいかなと思ったりする。ただ、Amazon プライムなどのように、過去のアニメや映画が一気に見れるようになってきているので、テレビで毎週という枠に縛られることなく、集中的にアニメなどの「作品」を吸収することが簡単になっている。小6の娘が「一休さん」を一気に観ているのをみるとそう思う。私が小学生だった頃は「一休さん」を観て、次の週までには、何気にその「一休さん」の中にあったもの反芻するという時間を得られたのだが、次々と見る場合には反芻する暇がない。それは、あたかも過去の漫画を大人買いして一気読みするようなものだ。週刊なり月刊なりの枠にとらわれずに「作品」そのものだけに一気に取り組むことになる。連載という強制的な枠の中で、時間軸を共にするのがよいのか、作品そのものに没頭するのがよいのか、それは時と場合にもよるだろうし、選択しえない強制的なものであるからこそ「空き時間での反芻」を余儀なくされるのかという違いがあるのだが、まあ、少なくとも週に十数本の連載を同時並行にこなすということはしなかった。

3月のライオン

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NHK の深夜11時に放送されている「3月のライオン」の原作を知ったのは、5年前だったかな。同時並行的に「はちみつとクローバー」に遡ったりしたのだが、将棋な部分と成長譚な部分と、著者・羽海野チカの成長(と思われる部分)が交錯していて、読み解き的にも面白い作品である。原作を読むと解るのだけど、将棋のシビアな部分と、主人公零の成長譚のシビアな部分が、3姉妹の高いテンションの部分で補われる。3姉妹が常にテンションが高いわけではなくて、シビアな部分がありつつ、そこは作品として交互に現れる「シビア過ぎにならない部分」がある。おそらく、連載において、シビアな部分が続き過ぎることを避ける(あるいは、成長譚をきちんと「勝負」として捉えられるぐらいの時間をとるべく)ために、間が設けてあるところが面白い。

アニメの場合は、淡々と原作をなぞることになるのだが、そこのテンションの高さとシビアな部分は30分という時間の中で交互に訪れる。しかし、アニメを見ている側(対象は中高生なのだろうか?)としては、シビアなまま暗澹として次の週を待つのではなく、ひとつ解決されて次の週に進むという方法が取られている。いわゆる「引き」を作ってしまうと、週の間が連続しすぎて辛くなる。また、DVD などでまとめられたときに、「引き」の後に次の話を続けてみることが可能なので、そのあたりはどうなのか難しいところなのだが(漫画本の場合は、話が連続している、かつ「漫画本」という1冊をまたがらないように作られている)、そのあたりも原作とアニメとの対比をみると面白いと思う。

でもって、現役中学生直前の小6の娘によれば、「原作通りなので、観なくてもよい」そうだ。まあなあ、でも、毎週録画してみるんだけどね、私は。

響け!ユーフォニアム2

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原作は、現役大学生(今は卒業したんだっけ?)なので、原作を読むと所謂「若書き」があるかと思い気や、そんなことはない。おそらくラノベというジャンルが広まった効果があるのだと思うけど、青春小説(?)とラノベの中間的な作品になっている。純文学っぽい若書きの部分が少ない…というかない。キャラの「悩み」というスタイルで書かれているものは、高校特有の「吹奏楽部」という狭い範疇だし(クラスとか勉強とかいうのもあまりない。受験がちょっとだけ出て来る)、そこの対象を絞っているのは、著者自身の実体験からきているものだと思う。売り出し方としては、ポニーキャニオンが関わっているから、「けいおん!」のような音楽併用というスタイルなんだろうけど、そこはアニメのほうの「のだめカンタービレ」とも違って、えらい真面目にクラブ活動内の人の関わりが細かく描かれている。クラブ活動とはいえ、文化部と運動部とも違い「吹奏楽部」という一種運動系でありつつも感性的なものである「音楽」を扱うという特殊な分野(と私は思う)から得られるところは多いだろう。

元が小説なので、アニメにするとせりふ回しが多くなっていて、(この歳なると)なにやらよくわからなくなるので、原作を読んだほうが手っ取り早いです。

これも一話完結な感じになっているので、気分的にあまり引きずられなくてよい。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

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実は、毎週見ているのは3本しかない…というか、ひとつ前は「マクロスデルタ」しか見ていなくて(録画だし)、あとでまとめて DVD で借りて来ることが多いので、ここのところは珍しいのだ。

ガンダムならばなんでも見ると言いつつも、DVD を買ったりしている訳ではないので、まあ、小学生の頃の「ガンダム」が今も引きずっているとも言える。逆に言えば、小学生、中高生の頃に見たアニメは、単なる消費財としてのアニメではなくて、なんらの思想に影響を与えるといえるだろう。それは、アトムを作りたいとか、ガンダムを作りたいとかいう直接的なロボット関係でもあろうし、「うる星やつら」とか「めぞん一刻」のような恋愛観が異性に対する表現の仕方として覚えていたり(かなりひねくれている?けど、高橋留美子の価値観ではあるよね)、そういうものは後々、成人しても影響を残すであろし、ひとつの価値観になると思われる。勿論、それはアニメや漫画に限らず、小説や思想書でもいいのだけど、学園紛争世代が「サンデー」を読んでいた、のと同じレベルだと思うんだけどな。

ひとつガンダムの世界感を読み解きをすれば、初代ガンダムのアムロのオイディプスコンプレックスから三日月なり鉄華団なりは自由になっている。ちょっと、ヤクザっぽいのはどうかと思うけど、幼少より「デブリ」として扱われてしまう世代からスタートして、大人の世界=既存の仕組みに常に翻弄されてしまうという外敵を跳ね返すためには、多少なりとも「暴力」(という言葉は使わないけど、ガンダムがそれにあたる)を使うことになる。これは主役が小中学生という制限だからこそでもあるし、当たり前だけど、これから生まれる/育つ世代は、既存の世界へは必ず「後からやってくる者」にならざる得ない。なので、既存の世界を崩壊させる(オイディプス・コンプレックス)として扱うか、既存の世界に組み込まれるか、既存の世界を自分たちの都合のように変えていくか、といういくつかのスタイルを取る。「金持ち父さん」あたりは、既存の世界に組み込まれるところからスタートなのだけど、オルフェンズは既存の世界を自分たちの都合のよいように作り変えるところにテーマがあるよね。それは、現実に対しても良い手本(失敗も含めて、疑似体験という意味で)になるんじゃないかなと思っている。

 

そんな訳で、観ている側としては「消費財」としてじゃなくて、作品として観るには、このぐらいが限界じゃないかなと思うんだがどうなんでしょう? ただ、この他に毎週見ている(ときどき忘れるけど)、「ムジカ・ピッコリーノ」、「大科学実験」、「TED」なので、偏っているといえば偏っている。週刊誌とか買わないしなぁ。

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