菩薩による天使学入門

菩薩はルドルフ・シュタイナーの「天使学」の本を読んだ。シュタイナーについては、かいつまんでいえば、何もしらない。ドイツの哲学者だったか教育者だったかなのだが、菩薩からは随分未来の話なので知る由もないのだ。しかし、世の中がこうキリスト教にまみれてしまうと、シュタイナーの「天使学」も馬鹿にできないところがある。今となっては、天使なぞいないことになっているが(いや、居ないというと語弊があるが、居ると信じている人には居る、居ないと思っている人には居ないかもしれない、という漠然とした回答にしておこう)、「天使学」には明らかに神が創造した天使がいることになっている。いや存在する。

天使は階級を作っている。菩薩は曼荼羅で階級を誤魔化しているが、真ん中にいるのが菩薩だと思えば天使の階級と似ていなくもない。曼荼羅を描くときに天使の階級を参考んしようとは思ったもの、頂点から下へ下がっていく天使の階級はちょっと曼荼羅とは異なる。厳然としたヒエラルキーがあるのだ。熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使(トローネ)、主天使(ドミニオン)、力天使(ヴァーチュー)、能天使(パワー)、権天使(アルヒャイ)、大天使(アークエンジェル)、天使(エンジェル)と続く。いわゆる、人間のところに降りてくる天使は「天使(エンジェル)」であり、他の階級は人間には見えない。感じられるだけだという。感覚として感じらえるために畏怖を持つのだろう。

時に、天使は目玉のような羽のような姿で描かれる。つまりはこのような感じだ。

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一見すると目玉おやじに羽が生えたように見えるが、ヴァチカンの天井絵にあるように天使は顔が書いてあって羽しかないものがある。顔が目玉だとすれば、まさしく天使は顔と羽しかない存在だろう。身体は不在でいいのかもしれない。

人間は死して天使に運ばれていくという。天国に召されるともいう。死んで無になってしまうよりも、天使に連れられて天国という極楽浄土に行くほうが人生に励みがでるというものだ。苦しい人生を歩んだとしても、死ねば天界に行けるのだ、楽できる。逆に、この世で悪さをすると地獄に落ちる。悪魔がうようよいる世界に陥って、一生…いや死んでしまったのだから一生という訳でもないだろうが、地獄をさまようことになる。ところが、ダンテの「神曲」によれば、地獄も階層化しており、旅をして帰ってくることができる。もしかしたら、観光気分で地獄に行くことも可能じゃないだろうか、と思える。ひょっとすると、閻魔大王とも通じているかもしれない。今度聞いてみようと思うが、果たし電話番号があっただろうか。

<暫し待て>

手帳を見たが電話番号はなかった。いや、そもそも電話なんてこの時代にあるわけなかった。よく、ホットライン繋がっているというが、地獄へのホットラインはないのである。ほっと一息したところで、もう少し「天使学」を読み進めてみよう。

将来的に、人間は天使に進化するという。人間は長生きではないから、遺伝的に子孫いや、もっと遠い未来の子孫が天使になるということだろう。菩薩で言えば、輪廻転生を繰り返して菩薩に至るわけで、その部分ではちょっと意見が異なる。いや、輪廻転生のほうが上、いや、包括しているとも言える。転生する先んとしてアメンボだったりオケラだったりがあるわけだが、その中に人間がある。ちょっとだけ、一瞬だけ人間に転生して、他の動物や虫にも転生する。人間でいるのはほんの一瞬だ。輪廻している間は地獄の修行僧ということになるので、なかなか菩薩に域には達せない、終着駅が菩薩なのであって、あちこちの生命を巡っているのである。だから、その転生の中に「天使」があってもあながち間違いではない。五万六千回転生して、その中に天使があったかどううか菩薩は思い浮かべようとしたのだが、「はて」さして思い出さない。色々な動物や昆虫を経て今に至ったわけだが、天使になった覚えはない。さては「天使学」はまがい物か、と思ったものの、仏心を出してもう少し読み進めてみることにする。さすが、菩薩である。と自己満足に至る。

天使の中で、智天使(ケルビム)はよく聞かれる存在である。全知全能ではあるが神とは異なる。神は全知全能の存在であるからこそ、人間界には接しない。たまに、神のくしゃみのような気まぐれで人間世界が被害を被ることがあって、戦争も神の思し召しだったりするので、迷惑な話だ。しかし、ある人間には迷惑と思ってみて、ある人間には迷惑ではないとも言える。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の系譜がそもそもが一つだったとすれば、それぞれの頂く神は、神の分身であり、分身通しがくしゃみしあっている状態とも言える。近場でくしゃみをするとコロナが罹るのでマスクをしたほうがいいと思う、と菩薩は思った。菩薩にしても、ひとりの菩薩とはいえない。いわゆる観音像はすべて菩薩ひとりである。菩薩の分身ともいえ、ちょうどワンピースに出てくる科学者と似ている。あれほど、明確に分かれているわけではないが似たようなものだ。本当に似ているかどうか別だが。

智天使(ケルビム)に話を戻すと、智天使は全知全能であるが神ではない。神の補佐をする。ウィリアム・ブレイクは神秘的な智天使を描くのを得意とした。逆転すれば、ブレイクの描いた智天使が、神秘的なものとして伝わったと言える。キリスト教や天使学の根本には「神秘的なもの」や「奇跡」というものがある。キリスト自身が奇跡を起こして人の注目を浴びたように、奇跡がなければただの人である。ユーチューバーや SNS で耳目を集めるために突飛なことをやるのと変わらない。いや、批判する気は毛頭ないのだが、それはキリスト教の系譜なのかもしれないと嘆息する菩薩であった。

<数ページ落丁>

菩薩は学んできたが、自然科学的かというとそうでもない。心理学かといえばそうかもしれない。最近でいえば行動経済学や認知心理学に近いものじゃないかと菩薩は思うのである。菩薩は、決して学問体系として悟りを開いたわけではない。ひと夏の天啓として悟りを開き、その後に教えを広めて回っただけなのだ。手塚治虫の描く「ブッダ」にあるように、順々に体系立ってつくているものではない。しかし、人というものは、何かの納得を得るために、根拠が必要だったりする。誰かの話を鵜呑みにするわけにはいかない。それは詐欺だ。トリックスターとも言える。だから、「人智学」はまだしも「天使学」を風潮してしまうシュタイナーは、さらにそれの元となる天使のヒエラルキーは、トリックの一種に他ならない。ただし、トリックとは言え、そのように進化するのが人間という生物なのだ、という進化学を菩薩は否定したくない。天使も輪廻転生も、ダーウィンの進化論から言えば異質のものである。とうてい納得できるものではない。ダーウィンは猿から人間が進化したというが、じゃあ、何か、私の転生元は猿なのか、そうなのか、その目の前にいるニホンザルが私の祖先であるのか。と憤慨したくなる菩薩ではあったが、よくよく考えてみれば、すべての生物を転生している菩薩だからこそ、昔は猿だったこともあるのだ。考えてみたらカゲロウだった時期もある。ほんの1日だけの転生ではあったが、人生の喜びや悲しみが詰まっていた。と思うだろうが、そんなことはない。一瞬だ。単なる義務だ。いまの菩薩に至るまので経過でしかない。しかしだ、物事は結果だけで求めてはいけない。そもそも、人間だってオケラだって、みんなみんな死んでしまうんだから、最初から無という訳にもいくまい。半村良の描く「妖星伝」は秀逸だ。この地球だけが生物に溢れている。溢れることが生死が混在する地獄なのである。混雑してるから殺し合いができてしまう。もっと離れて、生物同士が疎の状態であったらどうだろうか。いや、その世界は存在する。疎であればこそ、争いはめったに起こらない。なんと幸せな世界であろうか。と半村良は描くわけだが、そんなぁことはない。時間軸が一定に流れていることを間違えている。意識は一定時間で流れるわけではない。五億年を一瞬とする意識においては、星同士の衝突は頻繁に起こっている。なんという生き様か。そこは時間を越えてしまったものであり、憐みは時間で推しはかるものではない。

悟りというものが、一瞬で悟るのと同じように、至る道も一瞬でありつつも長い道のりを経ていないとたどり着けないものがある。ヒトの一生が有限であればこそ、その一瞬と長い年月との違いが明確になるものだが、輪廻転生という中ではそれらは経過でありプロセスに過ぎない。しかし、結果がなかなか出ないからこそ(当然ことながら上がりは菩薩自身だ)人は経過をもがき苦しむことになる。

菩薩は昔を懐かしんだ。五万六千回の転生を経ると、猿もあったかもしれないし、天使もあったかもしれない。多分ダーウィンにもなっただろうし、ブレイクになったことがある。人間は一回しかならないというルールを付けたのはだれだろうか。俺か?菩薩はひとりごちた。全てを経験していて昔を懐かしむ。忘れてしまったが、シュタイナーの「天使学」も書いたことがあるのだろう。「人智学」はちょっと役に立つとおもったけど、天使のヒエラルキーはちょっとやり過ぎだったかな、と菩薩は反省して苦笑した。

【完】