さよならもいわずに

このブログには日常の事を書かないことにしているのだが、本屋で上野顕太郎「さよならもいわずに」を見つけて記録を残しておくのも供養かと思い、1時間ほど書き下してみることにする。

24日に父(享年75歳)が死んだのは、2年前から始まっていた病院生活の終わりであった。7月頭に既に死を覚悟する旨を医者より聞かされ、先行きがないことにより直前の酸素吸入や輸血をしないことを決めたものの、直前に死の前に孫の顔を見せようかと札幌に行った時のことでもあり、1日前に苦しみながら息をする姿に今からでも輸血をすればとも思ったものの、時は遅く、いや実際には輸血をしたところで死が2週間ほど延びるにすぎず、最後は急性肺炎のため息ができなくなり、24日の夕方に臨終ということになる。
孫の顔を見せるという、という名目であるものの、実は2年前の交通事故から意識がなく軸索損傷にて反応も少なく、医者には「反射」と呼ばれるようなモノを追う目をしていた父ではあったが、声を掛けるとこちらを向いたような気もし、誰かが来ると瞼を開けて負うような気もし、硬直しつつある腕や手を拡げようとすると痛がり、顎が割れてしまった口をあくびのために開け閉めするたびに痛い顔をし、意識に関係なく伸びる髭を電動剃刀で剃ろうとすると鼻の下を伸ばし少し剃りやすいように仕向けるような気もし、兎も角も「意識がない状態」が続いていて、全く喋らず、トイレにも立てず、手足も動かせず、少しだけ瞳を動かし、疲れると瞼を下げる動作をする父という状態は、「老いた父」でもなく「呆けてしまった父」でもなく、ただそこに目の前のモノに反応する赤ん坊のような父の姿になったとも言えた。
そのような期間が2年間続いた。仕事場が東京にあるという場所がら、札幌に頻繁に帰ることはままならなかったが、下の子が生まれ、その1か月後に交通事故があり、幼い子を妻に任せて(妻自身の産後という大変な時期であった)2週間ほど北大の病院に母と通い詰めた。
タクシーの中で「ひょっとしたら、即死のほうが良かったかもしれない」と恨み言を言うかもしれないと、弟を怒鳴ってしまったしことは、実は楽観的な事実でしかなく、実際はモノ言わぬ状態だけが残された。
病状は重く、いや、足の骨折と内臓破裂と顎の骨折、あばら骨の骨折と、即死に近いものがあったものの、幸いにして足を切断することもなく、内蔵破裂で大量出血死することもなく深夜の長い手術と救急病棟の1週間があったものの「死」は免れた。しかし、意識は戻らなかった。いや、当時は意識が戻るものと思い、1ヶ月、孫の運動会のテープや声掛け、日に15分の面会を続けたのだが、意識は戻らなかった。
頭をひどく回転させると、脳と体を繋ぐ神経が切れる現象が発生し、脳が孤立状態になる。これが軸索損傷で、外部の世界から完全に遮断されてしまうとのこと。痛みも音も何も感じない世界に置かれ、全く眠った状態と医者には説明を受けたものの、瞼をうっすらと代えてこちらをきょろきょろと見る姿は、何かを探しているような感じがして、意識がないとは思えなかった。いや、脳神経が少しずつ回復する、回復しないにせよ別の回路が代用するという生命力があればこそ、事故直後のうつろな目の動きと、2年後の少しはっきりとした目の動きは、何か見ているような感じがした。手も指も顔も動かすことは叶わなかったが、俗な言葉を使えば「心」は残っていたのであろう。

だから、2年間の危篤状態の末に、最期に急性肺炎で亡くなったという言い方が正しい。意識がない状態では、嚥下もままならず流動食は口の管から、鼻の管から、最後には太腿の血管にそそぐことになった。喉を切開する時も、意識が戻った時に声が出ないのではないかと心配したものの無用であったし、2か月程の指や腕、全身のリハビリや針治療を繰り返したものの結論だけ見れば全ては無用だったと言える。ただ、父にとって死を引き延ばしてしまったのか、最期の自らの体が動かない状態を無用に長く続けさせてしまったのかと疑問に思うこともたびたびあったが、気管切開をして酸素吸入をやめてもなお自力で息をし、生来の健康性から(常備薬はなかった)心臓は強く打ち、切り開いたお腹の傷も治り、骨折した足の骨がついた生命力をみると、なんらかの「意志」があったのだから、意志に沿うだけと思ったものだ。だからこそ、延命処置としかならない輸血は断ることにした。実は2月に輸血を行っている。1回だけは延ばしてあげたいという想いと、後悔なく試しておきたいという思いがあったものの、それから1週間ほどは高熱が続いたそうである。治るのであればそれでよいものの、治らないとなれば、意識がないとすれば「延命」に何の意味があるのかと疑問になったが、それは「私達の時間」を確保するためだったと言える。交通事故の直後、即死という形で父を失っていた場合はどうなっただろうか。いや、交通事故で即死する人も多いのだが(実際北大には交通事故で担ぎ込まれる患者も多く、それなりの数に方が亡くなっていた)、私の場合はそれは結果的に、何かを納得するための「時間」となった。

「さよならもいわずに」を読むと、階下で即死をしていた(心臓発作とうことになるのだろう)キホさんの姿が描かれる。配偶者を亡くしたときの愕然さと、通夜、葬儀の慌ただしさ、親戚の出入り、そしてそれでも仕事/生活があるという姿が描かれる。これを、父の死の前に読んだらどうなったのかとも思ったのだが、いや、いま本屋に入って手に取り買ってファミレスでパンケーキを食べながら読むという行為は「タイミング」と「感情移入」に尽きると思う。

癌で死ぬ、老衰で死ぬ、体調が悪くてそれがもとで死ぬ、という姿のひとつに、交通事故の後「モノ」を言うこと無く長く続き死ぬというパターンが私には加わった。私にとって父の死という現象は、実は大学に行った頃に既にあったものの、奇しくも私の失態により4年程も前に幾度となく父に迷惑を掛ける機会ができてしまい、その後、なんとなく家族に戻った。家を出るという(大学で一人暮らしをするとか、就職で一人暮らしを始めるとか)時には、既に自分の中の父は死に面している。だから、父がどのように呆けようと、札幌で年老いていようと、実家で床に臥せることがあろうと、気にしないつもりでもありそういう態度を貫き通していたものの、現実は私の楽観的な予想を裏切り、突然の交通事故の後、意識不明の2年間、そして死という経緯に至ることになった。

現実というものは、かくも厳しいものかと思われるかもしれないが、いや、急性肺炎で息を引き取る臨終の場所に居合わせ、通夜、葬儀という慌ただしい現実が過ぎるなか、父の遺体の横に居ても、病院のベットの横にいる感覚しかなかった。良くも悪くも、意識がなく、喋らない父が其処にいるだけだった。ベットは棺に変わり、顔の周りには暑い熱気を避けるためにドライアイスを置いていたものの、何も変わらない。仮通夜、通夜、葬儀の中でお坊さんがお経をあげていても、気持ちはあまり変わらなかった。
が、火葬場に父を運び「焼」かれる1時間を待ち、鍵で開けて骨だけとなった姿を見ると、もう戻りはしないという納得だけが残された。後付けであるが、お経も葬儀もなんらかの儀式は、その時間の経過と納得の時間を引き延ばすための手段なのだろう。少なくとも私の場合は信仰よりも、引き延ばされた現実の時間だけが残っている。

通夜から初七日までの間、いくつかのプログラムと原稿用紙15枚程度の文章を書いて「仕事」をしてみた。死よりも生を優先させるのが良いのは、それは日常に立ち返らなくてはいけないからだ。
ひとつ、幸いなのは2年前の交通事故の後は、日常は「危篤付き」の電話とともにあったのだが、今後はそれがないということだ。母にとっては2年間ほぼ休みなしの見舞い(看護自体は病院がやってくれるので、行く必要はないのだが)から解放されるということと同時に、その日常が消えてしまうということだ。だから、父が消えたというぽっかりと抜けた穴は、実は2年前に起こり、そして2年間で埋められつつあった穴がもういちど無くなったのかもしれない。いや、覚悟をする時間があったから、その穴は比較的浅かったと思う。

1時間ほど書いたの終わりにしよう。
月並みながら自分が生まれたことに感謝し、目の前の仕事に取り組む。

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