『絶歌』を否定する

あまり、批判的な記事を書くことはなくなったのだが、これだけは残しておこう。書いた後に、エディタから消し去ってしまうか、そのままブログに載せるかは別のこと。自分が何をしようとしているのかを対象化することに「意義」があること、の実践でもある。

当然のように批判を浴びている元少年Aによる「絶歌」である。元少年Aというと、如何にも更生したかのような(正確に言えば正常に戻ったかのような)言い方になってしまうが、酒鬼薔薇事件の犯人であり、そこには「元」という冠詞はつかない。むろん、「刑期」を終えたのだから、刑期の前のように人権は扱われるべきではあるものの、直接的な被害者、殺人という事件の特異性、今回の「手記」を出してしまうような状況を鑑みれば、被害者の視点から「反省していて受け入れられる人」となるかは疑問である。

酒鬼薔薇事件が起きた当時「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いが「流行し」その後に少年法が改正されたはずだ。一度、少年法として緩くなったところに起こった事件で、その後、少年法が強化された。そんなきっかけとなる事件でもあり、ある「緩い少年法」のもとに裁かれたという事実がある。それを考えると、当時、犯人と思われる少年(容疑者という範疇だった)が保護されるものであり、また「幼年時期に起こした過ちは、なんらかの家庭環境にて影響があるものだから、本人だけに責任があるわけではない。それゆえに更生したのちは、社会に受け入れられるべきであり、そのためにも名前を公表するべきではない」という根拠から、常に名前は伏せられていた。今となっては、インターネットで手軽に検索できるものでもあるし、何処の誰だか特定も可能であろう。

「なぜ、人を殺してはいけないのか」の議論に関しては、色々な「有識者」がテレビ等で議論したにも関わらず結論はでなかった。非常に馬鹿馬鹿しい話ではないけれども結論がでなかった。憲法や刑法などで人を殺してはいけないという意見もあれば、人を殺したことにより自分が苦しむからとか、人を殺すこと自体が絶対駄目だとか、じゃあ戦争の場合はどうなんだとか、そういう些末な議論が多かった。それが「些末」に感じたのは、そこには被害者が不在だったからだ。直接的な被害者は「殺されてしまった」ので生きることができないし、残された遺族(あるいは子を殺された親)にとっては、殺人者を肯定できる意義は全くない。そこには、犯罪者への同意は存在しない。時にして、そういう自己卑下になることもあるが(自分の父親が交通事故にあったときがそれだ)、いや考えてみれば、他人と自分とは「違う」ということ、相手にとっては自分は他者であることを強く意識すれば同調なんてする必要はない。被害者にとっては、子を殺された厳然たる「被害者」という立場があり、相手はどうやっても「犯罪者」だ。
そういう、曖昧模糊とした他人行儀な議論を続けた末に『「少年A」この子を生んで』というものが出版されて、マスコミ等で話題になる。いまでこそ Amazon 等で批判を受けた批評が残っているが、当時の盛り上がりは、実に被害者が不在であることと示し、そこには「酒鬼薔薇事件」を消費する世間という姿があった。いや、当時はそうは思ってはいなくて、単に嫌な感じがしていただけなのだが、今の私だと解る。それは「事件」そのものを消費している世間(主にテレビ?)があり、その突飛な事件こと話題性こそがターゲットを被害者ではなく「犯罪者」のほうに目を向けさせて、厳然と存在する事実であった「殺人」さえもおぼろげにさせてしまっている。そこには、一般的な「反省」の姿や、思いやりの姿がない。

殺人者であり死刑囚であった永山則夫は獄中で小説を書き、獄中で結婚をし、獄中のまま死刑になった。殺人者にとって「小説」を書く自由があるのかどうか、また、書いた小説が賞を取るという「栄誉」を与えられてしまうのかどうか、という問題が当時はあった。勿論、永山則夫は成人男性であり、少年Aは未成年であり少年法の範疇である、という違いはあるかもしれないが、「絶歌」なる手記を出版してしまうという時期には32才という成人でもあり、そこにはなんらかの分別が必要であろう。それは、この文章自体のように書き連ねることの自由はあるが、その自由を「被害者」にまで行使して良いのか?という「分別」である。
永山則夫の小説は買ったことがある。が、『「少年A」この子を生んで』も『絶歌』も買わないだろう読まないだろう。なんらかの折りに資料として手を取るかもしれないが、その時は被害者の出した手記と同時に読むだろう。なぜだろう。そこには「殺人事件」を商品化する過程があり、それを消費する自分が見えてくるからだ。確かに、言論は自由ではあるし、ともあれば誰かを批判するための出版は自由であろう。それ揺れに、読まない自由もあるし買わない自由もある。が、この出版に関しては「言論の自由」以外のところにある厭らしさ、というか絶対的な否定感がある。おそらく、それが「殺人」に対して自己商品化する態度だ。

話を元に戻そう。「なぜ、人を殺してはいけないのか」の議論がなされ、結局のところ「なぜ、人を殺してはいけないのか」の結論が出なかった時代であった訳だが、自分の中では確信になるものがある。「人を殺すような人がはびこる世間は、自分にとって危険だ」からだ。おそらく、利己的な遺伝子と自分が属する社会の在り方(分化する社会)からの結論になる。人を殺すことの不利益もそうだから、人を殺す人が蔓延る世の中も私にとって不利益である。この論法から言えば、「酒鬼薔薇事件」を起こした犯人が「絶歌」という本を出版し、被害者の意見も聞かず自己満足のために出版へと踏切り世の中になんらかの「名」を成すというスタイル(まさしく、このスタイルそのものが「酒鬼薔薇事件」だということがわかる)を、私は肯定することはできない。かつ、私はそういうものを受け入れる社会は否定する。

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『絶歌』を否定する への3件のフィードバック

  1. rff のコメント:

    まー、20年近く前に・・・・『 親の、精神鑑定 』 をするべきだったな。
    (  彼も、暮らさなきゃならないし。 弁護士にでも、そう言われているのだろう )

    ところで、ニュースやマスコミはいつものように “たった、二人を殺しただけ” の酒鬼薔薇は攻撃しているが。
    「酔っ払い運転で、小学生の列に突っ込んで次々と子供たちをひき殺した未成年者たち」のことは、なぜか?
    ・言・わ・な・い。 そして、かつて中国大陸で100万人の中国人たちを殺した日本軍のことも、なぜか?・言・わ・
    ・な・い・・・・・・・なぜ?そ・れ・を・言・わ・な・い・の・だ・ろ・う 。

  2. のコメント:

    まー、『絶歌』 を肯定する。

    なんて、一度でも。聞きたい、ものだ。

  3. 羊たちの沈黙 のコメント:

    酒鬼薔薇のマネをした 「人を殺す経験がしたかった」 あの16歳の女子高生と。
    今は30歳すぎの、酒鬼薔薇とが。 今後 “気が合って、結婚して” 子供でも生まれて育てたら・・・・その子供たち
    は、21世紀の歴史に残るトンデモない怪物モンスターに成長することだろう。

    酒鬼薔薇や女子高生の、両親たちがそうであったのと同じように。

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