[と掌握術] 幸運と実力を手中にすると孤独になるのか?

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随分、回り道になっていますが、上条当麻を避けて、神裂火織の能力の話を。

とある魔術の禁書目録 Index – 神裂火織(かんざきかおり) としては、首長の元に生まれたことが、「不運」の始まりでもあり、自らが「幸運」であるからこそ、実力を以ってしても覆すことができない相対的な不幸、から脱却するために天草式を抜けて…ということになっています。確か、原作のほうは8巻ぐらいまでしか読んでいないので、ちょっとその先は分からず。

さて、魔術というか掌握術というか、magic 的な要素として、神裂は実に実力主義です。七閃という技も、唯閃という技も魔術とは無関係で現実の技として対抗できる。だから、上条当麻の放つ幻想殺し(魔術を無効にする力)に対しても「有効」であって、押し切ることが可能です。

これを、無理矢理、現実の世界に持ってきて比喩すると、

  • 魔術という軸(あるいは小細工)に対して、神裂は「実力」で押し切ることができる。

ということです。良くも悪くも現実の軸で対抗するのであるならば、「実力」が上のほうが上なわけで、真っ向から対応するのであれば「実力」があるほうが勝ちます。

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…が、「あれば」という言葉を使っていますが、ここが難しいところで、「現実」に「勝ち」を得るためには、なにも真っ向から勝負する必要はないのです。優先されるものは「勝ち」であり、その手段としてあるものが、魔術であろうと実力であろうと違いはありません。最終目的は「勝ち」な訳ですから、どんなに悪どい手段をとっても構わないし、逆に正当な手段を使って押し切っても構わないのです。「勝てば官軍」と言われる通り、「勝ち」というのはそういうことなので。

…が、実はこの「勝ち」にこだわること自体も、ひとつの軸に縛られているということで、別な軸から言えば、結果の「勝ち」よりも経過の手段の正当性が問われることもあります。「勝ち」というものは、結果に過ぎず進化論的に言えば、相手を打ち負かした(ボスになった、相手を引き摺り下ろした、相手を消し去った)ことに相当します。「勝つ」という点では、これが重要に思えますが、実は進化論の中で競争相手というのが重要で、この競争相手的なものとして結果とは違った経過を重視するミームというものがあります。「ミーム」というのは、言葉の遺伝子なのですが、「勝ち」というののが、生物学的な遺伝子だとすれば、ミームは思想的な遺伝子と言えます。思想的な力というのは、直接的な親子関係(会社の上司部下、家族とかも含む)ではなくて、とある行動の元となる「規範」(行動ルール)のようなものです。この規範を共有することによってえ、ひとつのミームを共有する人々は、あたかも生物学的な遺伝子を共有するかのように、集団自体を守るという行動をとります。そういう点で、「勝ち」とは違った、「行動様式」が存在するのです。

さて、これを神裂の例に戻すと、神裂は天草式のメンバに慕われています。この「慕われる」という無条件性は、神裂自身は首長の元に生まれたという絶対性(生まれた時の不公平さ)に対して悩むわけですが、実は「慕う」側の論理としては、先の「行動様式」に惚れていると言ってもよいのです。それが、たまたま首長の身であったからこその、かりそめの不幸もであり、逆にその首長の身として生まれた「幸運」に甘んじることなく、七閃という実力を編み出すところに、神裂自身のマジックがあります。まあ、そういう独立性を仮に「聖人」と呼ぶわけですが。

で、これを現実のものとして使っていく場合は、相手の小細工を押し切るだけの「実力」が必要ってことです。

ここが難しいところで、実は「小細工」を押し切る「実力」というのは、相手の5倍以上、10倍程度はないと駄目なんですね。これは、孫子を読むとわかるのですが、兵隊が相対するときの兵力差が5倍以上あれば、相手が何をしようとも押し切れるというところです。逆に言えば、5倍から10倍以上の実力の差がない場合は、「実力」で押し切るのは難しいということで、逆に何らかの「小細工」…という言い方が悪ければ作戦を「実力」にプラスアルファすることが必要です。孫子の謀攻編にあるので読んでみてください。

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そんな訳で、今日はこれまで、

では、さいなら、さいなら、さいなら。